〜 80年代に大阪国際写真センターとして山沢栄子の作品制作をサポート〜
山沢栄子は1899年に生れた19世紀の人であることにまず驚かされる。女子美術大学で日本画を学び、26歳で貨物船に乗り西洋絵画の勉強のため米国留学に留学した。そこで、生涯の師となるコンソエロ・カネガ女史に出会い写真を学ぶ。
帰国後は、写真の本場仕込みの新しいカメラを使う写真スタジオを大阪の堂島に開設。
そこには、小説家の菊池寛、建築家の村野藤吾、経済人の佐治敬三などが性格描写に優れた山沢写真のファンになり、当時の著名人や文化人などが好んで写されに訪れた。
また、女性解放運動のリーダであった平塚雷鳥らの活動に女性の自立への関心から賛同し自分のスタジオを会合場所に提供、運動のリーダであった小西綾とも出会い晩年まで親交を続けた。その後も、具体美術協会やデモクラート美術協会で盛り上がる関西モダニズムの画家達との親交を深めながら写真作品を創る。特に、サンパウロビエンナーレの日本代表になった画家の 津高 和一(大阪芸術大学教授)との友情や日本迎賓館の設計者である建築家の 村野 藤吾 からは信認が厚く村野建築の最後の作品である大阪上本町の都ホテルのロビー天井を抽象写真で表現した。
残念なことは、大阪空襲で山沢栄子のスタジオと戦前の貴重な写真作品などは焼失、戦後はフィルムの入手のためGHQのアメリカ兵のポートレート写真を撮りながら写真活動を続けた。当時の写真家では珍しく浜地病院やロックペイントがパトロンになり山沢栄子の制活動を支え続けたのは、戦後の日本の写真界の主流であった雑誌ジャーナリズムやカメラ雑誌のコンテスト写真に興味を抱かず、芸術家としての生き方を貫いた先駆者でもあった。60歳を過ぎ営業写真や商業写真を辞め、アメリカ旅行を機にアブストラクト写真に傾注していく。
80年代には米国のコンスドラクト写真の第一人者であるバーバラ・キャスティンが写真の抽象派と女性の表現者の先駆者として世界に紹介し、一躍、世界の写真史に登場する。足の骨折とカメラの重さに悩む最晩年には、ペーパーコラージュで抽象イメージな作品を創り続け個展を開くなど96歳まで創作活動を続けた。
80年代の作品制作をサポートし、大阪と東京の新作展覧会をアートディレクションしたのが大阪国際写真センターの 畑 祥雄(現・大阪国際メディア図書館・館長)が、制作の合間にアトリエの撮影テーブルで紅茶を飲みながら交わした対話から日本を代表する写真家でモダニストの山沢栄子から聞いた創造精神を9月29日にJPS展の記念講演で伝える。